守護は、地頭と同時期(1185年)に設置されたが、その性格はまったく異なっていた。地頭が徴税人として荘園ごとに置かれたのに対し、守護は幕府の地方官として国ごとに置かれ、国内の治安維持と大番役を柱とする大犯三箇条がその任務であった。14世紀前半に京都に幕府を建てた足利尊氏は、南北朝の争乱を有利に進めるために従来の守護よりも強い権限を守護に与えた。鎌倉時代の大犯三箇条に加え、刈田狼藉を認め、また使節遵行権を守護に与えた。さらに、本来、領主に納入すべき荘園の年貢や知行国主に納めるべき国衙領の年貢のうち、半分は領主に届けるものの、残り半分は兵糧米として現地の武士に与えてよいとする半済や分国内の荘園管理を守護に任せる守護請などがおこなわれた。このような権限の強化を背景に、守護による地頭の被官化がさらに進行し、守護大名として軍事・警察権能だけでなく、経済的権能をも獲得して、分国内での領域的な支配を強化していった。これを守護領国制と呼び、複数の国の守護に任じられて大勢力となる例もあった。
しかし、守護はもともと幕府権力を背景にして成長したものであり、もしも、この背景が何らかの理由で崩れる怖れのあるときは、守護自体の存立が危うくなる。守護が多くの場合邸宅を京内に構え、任地には守護代を派遣したのもそのためである。また、守護大名は、荘園内のさまざまな権利に基礎をおいており、荘園体制がくずれることは自らの経済基盤を失うことでもあった。さらに、分国内の武士との主従関係も、所領そのものの授受ではなく軍事・警察における指揮権を通じての関係から始まったものであった。「守護の領主化」といってもそこには限界があり、室町時代が、南北朝の争乱後も常に中央、地方問わず波乱含みで政治的に不安定だった理由ともなっていた。
荘園制がくずれ、地方の政治に一定の責任をもつという意味での領主層の誕生は戦国時代にはじまる。それは、守護大名とは異なり戦国大名が基本的には現地に居住したこと、また、それぞれ分国法と呼ばれる法令を公布し、通用させたこと、さらに、それぞれの大名が鉱山開発や農業用水の整備など殖産興業と富国強兵を目指したことに端的にあらわれている。戦国時代には、大名を君主として土地そのものを媒介とする主従関係が発達し、これが江戸時代の地方知行制のもととなっていった。
戦国時代を終息させた農民出身の豊臣秀吉は、1582年(天正10年)に太閤検地を開始し、1つの土地に数人のもの者が権利をもつ、複雑な土地所有関係を整理し、土地制度を一新させた。ここに荘園制度を完全に崩壊し、石高制による近世的土地所有を実現し、農民には耕作権を認めるとともに年貢を納める義務を負わせるとともに、大名には所領をあてがうとともに、改易や国替を可能とした。
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秀吉はまた、1588年に刀狩を実施して、百姓身分から帯刀権を奪い、武器使用を規制して兵農分離を完成させたいっぽうで、近世的な武士身分を創出した。武士は、苗字帯刀を許され、城下町に住まわせることとした。これに前後して武士の間では家紋の研究が流行している。
江戸時代の封建領主としては、幕府の徳川将軍家をはじめとして、藩を単位とする1万石以上の大名、1万石未満だが将軍御目見の特権を有する旗本、御目見の特権のない御家人、また石高の高い大名の上級家臣があった。
江戸初期には、大名は一定の土地を有力武士(給人)にあたえる地方知行制がとられていたが、給人が勝手に年貢を徴収することもあったため、大名は自ら治める支配領域を拡大し、1690年頃には俸禄制度が一般的となった。これ以後、知行制度をのこす藩の数は全体の17%となった。
その知行制度も、明治維新後の廃藩置県によって中央政府が任命した府知事・県令の派遣によって終わり、武士の特権も廃刀令と秩禄処分によって完全に廃止された。