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輝政は豊臣一族に準じて遇され

豊臣時代、輝政は豊臣一族に準じて遇され、従四位下侍従、および豊臣姓を許される。また、関白・豊臣秀次の失脚時、秀次の妻妾の多くが殺害されたものの、輝政の妹・若御前(秀次の正室)は特に助命されるなど、特別丁重に扱われている。文禄3年(1594年)、秀吉の仲介によって、徳川家康の娘・督姫を娶る。

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慶長3年(1598年)8月、秀吉が没すると家康に接近。また、武断派の諸将らと共に行動し、文治派の石田三成らと対立し、翌慶長4年(1599年)閏3月3日、武断派と文治派の仲裁をしていた前田利家が死去すると、七将の一人として福島正則や加藤清正らと共に石田三成襲撃事件を起こした。慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いでは徳川方に与し、本戦のみならず、前哨戦となった岐阜城攻略にも参加し、福島正則とともに功を挙げた(岐阜城の戦い)。

戦後、播磨姫路52万石に加増移封され、名を輝政と改めた。慶長6年(1601年)から慶長14年(1609年)にかけて姫路城を大規模に改修する。また、諸大名らと共に、慶長11年(1606年)の江戸城普請、同14年(1609年)の篠山城普請、翌15年(1610年)の名古屋城普請など、天下普請にも従事し、篠山城普請では総普請奉行を務めた。翌16年(1611年)3月には、二条城における家康と秀頼との会見に同席した。慶長17年(1612年)、正三位参議、および松平姓を許され「播磨宰相」「姫路宰相」などと称された(宰相は参議の唐名)。また、次男・池田忠継の備前国岡山城28万石、三男池田忠雄の淡路国洲本城6万石、弟池田長吉の因幡国鳥取城6万石を合せ、一族で計92万石(一説に検地して百万石)もの大領を有して、世に「西国将軍」、「姫路宰相百万石」等と称された。徳川家との縁組は家格を大いに引き上げ、明治維新に至るまで池田家が繁栄する基盤となった。

慶長18年(1613年)1月25日に姫路にて急死する。死因は中風。享年50。輝政の死は秀吉の呪いとも噂された。家督は長男(嫡男)の利隆が継いだ。

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2009年05月01日 12:21に投稿されたエントリーのページです。

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